東浩紀ツイーツ(@hazuma)より
- 2012 07/22 (Sun)
ゼロ年代ってそういうのだったのか知らなかった。『科学する麻雀』(2004)という本を読んだら、麻雀には思想も入らない読みも入らない、基本的にはすべて確率でしかないのだからデータ主義で行くべし、先行世代の言説にはすべて意味がないという、なるほどもっともではあるのだろうが、同時にいかにもゼロ年代的なことが書いてあった。
hazuma 2012/07/16 11:48:54
この手の「人文的な言説はもはや要らない、これからはすべてデータだ」というのは、領域を問わずゼロ年代の流行だったのだな。麻雀は実際にそうだと思いますけどね……w
hazuma 2012/07/16 11:52:08
分析哲学が主流になってから哲学が文学→数学になったという話とは違うか。
思ったのはそれだと、デカルト的に人間の理性が絶対という世界に逆戻りしているように見える。
そういう理性が絶対というのは、否定され乗り越えられてると思っていて、
例えば3.11でいうと、防潮堤を50メートル?以上の高さにすれば解決すると考えた人もいたと思うけど、
そういう人はまだ人間の理性を信じている人で、
僕は、人間の理性を超えたものがあるし、少なくとも自然の方が上と考えていて、
人間がすべてを支配できるように見えるけど、
実際は自然・地球に支配されていると思う。人間はすべてを支配できない。
前者=リベラル思想(理性が絶対)、後者=コンサバ思想といえるかもしれない。
今の麻雀界は「流れ」を否定する方向に向かっているけど、
確率・統計が全て、理性が全てということに前から違和感があって、
「流れ」という概念は不合理で排除されるべきなので、これから消えていくことになるけど、
理性を超えた概念、
ロボットを超えた人間性ということを「感性」だとすると、
桜井章一の思想と一致するかもしれない。
雀鬼流に限らず、そっちの方向でいろいろ出てきてほしい。
とかいってるけど、すでにいろいろあるかもしれないし、あまりよく知らないのに言ってます。
麻雀プロでたとえれば、理性=小倉プロ、感性=渋川プロと簡単には言えないかな。
何切るってあるけど、すべてこの2人に解かせてみたらおもしろそう。
感性っていっても理屈で100%説明できたら理性と同じことになるからどうなんだろう。よくわからない。
年何十戦というか、数千試合!しないと強さが正確には分からないというデータもある。こういうのを聞くと、麻雀って何なんだろうね。誠意って何かね。と思ってしまう。ただこの手のデータ主義には基本的な前提があって、それは、ここで強いと言われる技術はあくまでも確率の問題だから、その魅力は年何十戦何百戦もやらないと見えてこないということ。でもたいていのひとにとって、麻雀って年に何回かやるだけなんだよね。
hazuma 2012/07/16 11:55:37
過剰な物語→統計分析→感性の麻雀へ。麻雀に過剰な物語が求められるのは、その「たった一回」の半荘をより魅力的で刺激的にしたいからで、その虚飾をすべてデータ主義で剥ぎ取ったとしても多くのひとの麻雀体験はまったく豊かにならないのでは、とか読みながら思った。統計的な分析は、反復不可能な体験を扱えないんだよね。
hazuma 2012/07/16 12:00:12
昔、麻雀打ちがロジカル(デジタル・流れ否定派)だけになったら麻雀は滅びるって言った人がいたけど、そしてその欠点がもっとも現れるのが「人生というゲーム」で、これは万人が一回しかプレイできない。いくら情報を集め、完璧な人生プランをたてていても、不運な事故があれば一発で終わり。そこでは、いま目のまえの幸せを大切にするほうが、統計的に優位の戦略を採るよりも合理的だったりするのです。
hazuma 2012/07/16 12:04:16
というわけで、まったくのアマチュアで年何回かのプレイを大切にしたいぼくとしては、『科学する麻雀』よりも『ムダヅモ無き改革』を参考に打っていきたい、とか思ったのでしたw
hazuma 2012/07/16 12:06:50
そうなったら超能力系のマンガがなくなったりすれば、ちょっとさびしくなりそう。
ぼくも『咲-Saki-』を参考に打っていきたい、とか思ったのでしたw
ギターがなかったらこの曲全くイミない~(* ̄∇ ̄)ワハハ


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